【世界のミンワから】第46回「牛飼いと裁判官」

ここから解説です。
ヘルツェゴビナのミンワです。

罪には罰をといいますが、果たして本当でしょうか?
いえ、罪を犯すこと、そのものがすでに良心を痛めているのだから、すべからく罰を受けて言うという話をしたいわけではありません。

罪と罰は本当にセットなのかということです。
思えば、ドストエフスキーがその有名すぎる小説タイトルで罪と罰をセットにしたと言えます。ロシア文学はほかの文学に比べ愛称が多く日本人には読みづらくほとんどの人が読んだことがないにも関わらずです。

しかし、罪を犯した者は本当に罰を受けなければいけないのでしょうか?
人の一生は一度です。
罰を受け、死んでしまっては元も子もありません。そもそも裁判官といえど、人に人が裁けるのでしょうか?

世が公平を求めすぎるあまり、罪にはそれ相応の罰がなければならないと考えがちです。
ですが、罪には更生こそが望ましいと思うのです。
人を更生すること、それこそおこがましい話ですが、生きていることが罪になることなどないでしょう。
だからこそ、無理を承知で、人は人の更生に挑むのではないか?と思うわけです。

過ぎたことはすべからくどうすることもできません。
獣を裁いたところで何の意味もありません。

ミンワでは「獣」だから更生をあきらめましたが、人であればどうでしょう?

公平を求めすぎるあまり、更生ではなく、罰を求めていませんか?

昨今の新型コロナ騒動で、得する人と得をしない人、それぞれいますが、それはそれでいいのではないかと思うのです。公平を求めることが、罰を求めることにならないようを切に望みます。