沈みゆくボート-第9回

このコラムについて

ミンワとは泥や失敗やこっぱずかしさ、
カサブタやひだひだの一杯ついた本当の物語。
創業や商品開発、危機的状況を乗り越えるたびに新しく生まれています。
ミンワの新作は現代の企業における新しいミンワを紹介していきます。

毎週木曜日配信のミンワの新作。杜若経営法律事務所の「沈みゆくボート」。
前回の第四章「出版にまつわる大炎上」の続きをお送りします。

第五章 がんが見つかる

向井は、自分の下についていた岸田を高く評価していた。だが、本当はもっと大きく羽ばたくはずだと考えていた。
 杜若経営法律事務所と名称を変更し、ホームページや講演会、書籍の発売のほかにも、向井の発案でさまざまな施策を取っていた。そのひとつが、事務所で開催する顧客向けのセミナーだ。
 月に一度の事務所会議で、顧客向けセミナーの講師を決めているとき、岸田はそろそろ、自分が担当する番かもしれないと感じていた。
「そろそろ私がやりますよ。ははは」
 気が進まなさそうに苦笑いをしたが、いつもの笑顔でおちゃらけるのが岸田のキャラクターだった。すると、珍しく向井が厳しめの口調で言った。
「何をふざけてるんだ?  積極的に『やらせてください』と言わなきゃダメだろう。『めんどくさい』とか『仕方なくやるか』という態度はよくない。所員全員が自分でセミナーに集客できて、お客さんを集められなければ事務所の将来はないんだぞ」
 実際、事務所は向井の人気で持っているところが大きかった。問い合わせが後を絶たないのも、向井が講演会やホームページ、書籍など、さまざまな情報発信をしているからだった。
 岸田は正直、業務に直接関係のないようなセミナーのレジュメを作ることを面倒に感じていた。それでなくても忙しいのに、それとは別に時間を取らなくてはいけない。ただ、将来を見据えたときに、自分の力で顧客を獲得することが大切なのかもしれないと、初めて考えた。
 それまで、自分で仕事を取れるとは思いもしなかったが、常に仕事があるのは当たり前ではない。「岸田」の名前で仕事が取れるよう、活動しなくてはいけないのだと思いなおした。

 十名の顧客を呼んで、会議室で開催した岸田のセミナーは、初めてにしてはなかなかに好評だった。岸田自身も、人前で話すことを楽しいと感じた。
 その後、岸田が初めて外部で登壇したセミナーは、向井が紹介してくれたものだった。企業から打診された日に向井の都合が悪かったため、ピンチヒッターという形だ。参加者は五十名ほどで、都内のセミナールームで開催した。
 岸田は元来、人と話すのが好きで、人前で話すのも向いていた。
「向井先生とタイプが違って、よかったです! 」
 終わった後、担当者が近づいてきて笑顔で言う。
 講演会が終わると、夕方から交流会があった。そこはまさに、岸田の本領発揮の場だった。ゲストであるにもかかわらず、酒を注いで回る。そんな弁護士はめったにいないのだ。
 名刺交換したときの会話を覚えておき、翌日にその話題を入れてお礼のメールをする。向井とは違う岸田ならではの方法で、自然に仕事を広げていった。