沈みゆくボートー第1回

このコラムについて

ミンワとは泥や失敗やこっぱずかしさ、
カサブタやひだひだの一杯ついた本当の物語。
創業や商品開発、危機的状況を乗り越えるたびに新しく生まれています。
ミンワの新作は現代の企業における新しいミンワを紹介していきます。

毎週木曜日配信のミンワの新作。
今週から杜若経営法律事務所のミンワ「沈みゆくボート」をお届けします。

プロローグ

「佐々木先生が辞めることになった」
狩野祐光は、メガネのブリッジを人差し指で押し上げると、会議室に集まった二人に対して神妙な面持ちで告げた。独立することになった佐々木とは、狩野祐光法律事務所のナンバーツーだった弁護士。辞めることになれば、佐々木に付いていく顧客も多いことだろう。売り上げが落ち込めば、経営が難しくなることが予想できた。
「仕方ないですね……。私たち三人で頑張りましょう。まずはできるだけ、お客さんが離れないようにすることですかね」
おだやかで楽天的な岡正俊は、そう言いながら両手を握り机の上に置いた。
三年前に入所した向井蘭は、岡の隣で事務所の危機を強く感じていた。
事業は、変化し続けないと成長できない。成長しなければ緩やかに沈んでいき、中にいる人たちは気が付かない。そして、気が付いてからでは手遅れなのだ。
「事務所のこれからを考えなくてはいけないと思っています」
それは、向井がずっと考えていたことだった。営業活動をしなければ、弁護士事務所は簡単に経営難に陥る。
過去、弁護士が広告活動をすることは法律で禁止されていた。現在のように広告活動が許されるようになっても、多くの弁護士は営業する感覚を持っていない。だからこそ向井は「自分がやらなくては」という使命感に駆られていた。
「私、営業しようと思います」
それは、父が事業に失敗した過去を知っているからこその決意だった。
何をどうすれば顧客獲得につながるかもわからないまま、向井は膝の上に置いたこぶしを強く握りしめた。
弁護士は、顧客の取り合いでトラブルになることが多い。ところが代表の狩野は、そういうタイプとは真逆だった。
事務所を立ち上げたときから狩野は、「『自分の顧客だ』と、独占するような感覚は持たないように」と所員に言ってきた。つまり、所内の弁護士同士で競争するようなことはしないし、後輩や部下の活躍を疎ましく思うこともない。
そんな背景もあり、向井の新しい挑戦に反対をする理由はなかった。
「向井君が頑張るなら、やってみればいい」
狩野はそう言うと、自分は自分で、これまで通り紹介から顧問契約が増えるように活動していこうと決意を新たにした。それは、岡も同じ考えだった。

続く…


文 栃尾江美
絵 山本麻央