ほんとうは教えたくない とうかいのいまはむかし-第5回

このコラムについて

ミンワとは泥や失敗やこっぱずかしさ、
カサブタやひだひだの一杯ついた本当の物語。
創業や商品開発、危機的状況を乗り越えるたびに新しく生まれています。
ミンワの新作は現代の企業における新しいミンワを紹介していきます。

毎週木曜日配信のミンワの新作「本当は教えたくないとうかいのいまはむかし」。前回の第二章の続きをお送りします。

第三章 独立後の挫折

「いよいよ、『社会保険労務士法人とうかい』のスタートだ」
がらんとした十畳ほどのオフィスを見渡し、久野はつぶやいた。まさか、出世のためと思って勉強し始めた社労士の資格で独立するとは、当初は考えもしていなかった。

社会保険労務士の資格を得るために勉強を始めたのは、外商営業になって三年目のこと。毎日のように勉強していたカフェで、資格試験の勉強をするようになっていた。
久野の頭には「成長したい」という思いがずっと、強く存在していた。その先に「出世したい」「成功したい」を思い描いていた。
「営業の経験だけでは、経営層まで上り詰めるには足りない」
役員の面々を見ると、人事部を経ているケースが多い。つまり、出世するには人事に関する知識が必須なのだろうと考えた。
ところが、社労士の資格を取得した後、百貨店の統廃合などにより、出世の道が絶望的になったように見えた。そのため、久野は独立を志すようになったのだ。
たった一組のデスクと、椅子。固定電話も付けた。
会社を辞める前に、担当顧客全員に告げていた。それまでに、顧客との雑談の中で、彼らが経営する会社の人事の悩みを聞くことも多かった。だから、相談の電話がかかってくるだろう。久野はそう楽観的にとらえていた。
それが現実を見ていない夢物語に過ぎないと気が付いたのは、事務所を開けて数日後のこと。電話は、一向に鳴らなかったのだ。
「事務所なんか借りてしまって、大丈夫なんだろうか」
支払った敷金と礼金に後悔の念。これから毎月家賃がかかるが、それを支払うための売り上げがないのだ。彼には家族もいるし、子どももいる。貯金がどんどん減っていく様子がありありと浮かんだ。
久野はまず、これまで担当していた百貨店の顧客に連絡を取ることにした。

「寄川さんですか。久野です。先日お話した通り社労士事務所を立ち上げたので、何かお手伝いできることがないかと思いまして… … 。一度、お伺いして説明させていただいてもよろしいですか」
電話の向こうの寄川は、物腰の柔らかかったこれまでとは別人のような雰囲気を醸し出していた。
久野は翌日、寄川の自宅へ向かう。そこで彼を待っていたのは、思いもしない現実だった。
「独立したばかり?  実績がないと何も頼めないなあ」
「実績…… 。私の仕事ぶり、ご覧いただいているかなと思ってたんですが…… 」
「百貨店のブランドがあるから頼んでたに決まってるじゃない。辞めなきゃよかったのにねえ」
事務所を立ち上げてから一か月、毎日この調子だ。多くて一日十件くらいは訪問するが、すべてかすりもしない。
「どうしてこんな仕事始めちゃったの? 」
「百貨店のほうが向いてたんじゃない? 」
車を運転しながら、何度も言われた言葉が頭をぐるぐると回る。それでも、久野はまだ引き返すわけにはいかなかった。


文 栃尾江美
絵 山本麻央