【ミンワ経営のすすめ】第14回「中岡慎太郎が残した名言」

このコラムについて

「物語の力を学び、経営に活かす」
創業時の物語、危機的状況を乗り越えた逆境の物語、商品やサービスが誕生したときのはじまりの物語、大切な社員たちとの出会いの物語。それらを学ぶことは業績アップの第一歩です。なぜなら、経営とは物語の集まりなのです。

高知の中岡慎太郎館に行ってきました。


高知駅前の銅像 左から武知半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎

中岡慎太郎館は、高知駅から遠く離れた高知県安芸郡北川村という大自然に囲まれたところにあります。

わたしが中岡慎太郎を知ったのは、小学校5年生の時に「お~い竜馬」を読んだのがはじめてです。龍馬が好きで、龍馬と所縁のあるところは日本全国いろいろなところに行きました。竜馬の脇役の印象が強い中岡慎太郎ですが、薩長同盟など中岡慎太郎があげた功績は計り知れません。
今日は、坂本龍馬とともに暗殺された土佐の志士、中岡慎太郎の物語。

文久3(1863)年、世に言う「八月十八日の政変」が起こります。攘夷派の公卿・三条実美(さねとみ)らが失脚し、三条ら七卿は都を落ちし、後ろ盾となっていた長州藩の領内へ逃れます。慎太郎はこの異変を聞き、ひそかに国を脱して自らの目でことの次第を確かめようとします。この直後、土佐勤王党は藩からの弾圧にあいます。土佐に残っていたら中岡慎太郎もどうなっていたか分かりませんでした。結果として運良く難を逃れたと言えます。

命拾いをした慎太郎は長州に身を寄せ、久坂玄瑞や高杉晋作といった志士と深い交流をかさねる一方、京に潜伏し西郷信吾ら薩摩藩士とも面識を得ていきました。

時勢はしだいに攘夷から討幕へと向かっていきますが、慎太郎は長州・薩摩という二大雄藩の同盟なくして幕府を倒すことは不可能と判断し、その実現へむけて動きはじめます。このころ龍馬と交流し、難局を乗り越えながら龍馬と薩長同盟を実現させました。この同盟は、薩長双方にわたる慎太郎の人脈と信頼なくしては成しえなかったと言われています。そして、大政奉還の後、慎太郎と龍馬は、京都の近江屋で何者か(所説あり)に殺害されます。29歳7ヶ月という短い生涯でした。

龍馬は「之レト相謀ラザレバ、復タ他ニ謀ルベキ者ナシ」(中岡とでなければ、事を成すことはできぬ。)というほど、中岡信太郎のことを強く信頼していたと言われています。

中岡慎太郎の名言
それは、中岡慎太郎が木戸孝允(桂小五郎)宛に送った手紙の中にありました。

「世間因循(いんじゅん)傍観区々として、只(ただ)人の失策を求め笑い、坐して天下の機会を失し甘じて人の後に落つ」
(世間には評論家気取りの傍観者がいて、人のあら探しをし、失敗を笑う。だが、そんな人は、チャンスをつかむことも人の上に立つこともできない)

木戸孝允に行動するように促したのでしょうか?

欧米列強が日本を取り囲み日本が亡くなるかもしれない中で、幕府への批判をするだけの人、挑戦し失敗したものへの「それ見たことか」という批判するだけの人。恐らくそんな人ばかりだったのでしょう。そんな中でも、やはり挑戦する者だけが成功をする。何もしないものは、何もつかむことができないと信じて命をかけて日本を変えた若者。
そのことを考えると鳥肌が立ちます。

時は平成の終わり、わたしも大変革期に行動できる人間でありたいです。



中岡慎太郎生家