【ミンワ経営のすすめ】第13回「三菱を創った男」

このコラムについて

「物語の力を学び、経営に活かす」
創業時の物語、危機的状況を乗り越えた逆境の物語、商品やサービスが誕生したときのはじまりの物語、大切な社員たちとの出会いの物語。それらを学ぶことは業績アップの第一歩です。なぜなら、経営とは物語の集まりなのです。

今週の頭に、高知にいってきました。三菱の創業者岩崎弥太郎の生家にも行ってきました。

今日は、三菱の創業者岩崎弥太郎の物語。

岩崎弥太郎は、明治維新後の明治3年(1870年)から九十九(つくも)商会という海運業を行う商社の代表となりました。廃藩置県後1873年に三菱商会と改名します。

三菱商会は、台湾出兵、西南戦争を機に、新政府の軍需輸送を独占して巨大な利益をあげました。そのシェアは、全国汽船総トン数の73%になりました。政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使いましたが、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して、世論からは多くの反発を買いました。当時の農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と批判すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論したと言われています。強気ながらも、ウィットに富んだ雰囲気も感じられます。

岩崎弥太郎の当時のライバルは、海運業最大手は日本国郵便汽船会社。
親方日の丸の横柄な日本国郵便汽船会社に対して三菱は、店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で対応しました。武士の意識が抜けず笑顔の出来ない者には、弥太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し 「お客を小判と思え」と説いたエピソードがあります。
江戸から明治へ。その変化は私たちでは計り知れないものだと思います。変化に適応していくことが経営にとって大切だと感じられれる一面です。
その後、海運業からの多角化によって三菱財閥の基礎を築きました。

【三菱のロゴマークの由来】
高知と言えば土佐藩。その藩主は山内家でした。三菱のロゴマーク「スリーダイヤ」は、この山内家の家紋「三つ柏」(上)と岩崎家の家紋「三階菱」(下)を合わせたものです。どのような思いでこのロゴにしたかは分かりませんでしたが、山内家への尊敬と感謝の念があるのだと思います。

 

 

【編集後記】岩崎弥太郎の生家を見て。
高知県安芸市の田んぼに囲まれたところにありました。弥太郎は今の三菱を見てどんなことを思うのでしょうか?この田舎からどのように日本の表舞台にあがっていったのか?そのことを考えると鳥肌が立ちました。